仕組み
監基報530号は、母集団から一部の項目を選択し、その項目に対して監査手続を適用する方法を定めている。サンプルの結果から、母集団全体についての結論を引き出すことになる。
重要な概念は、サンプリングリスク(サンプルが母集団を正しく代表していないリスク)と非サンプリングリスク(実行上の誤りや判断の誤り)の区別にある。監基報530号第A1項では、サンプリング方法そのものではなく、サンプルから引き出された結論の適切性が焦点となることを述べている。
実務では、サンプルサイズの計算に3つの要素が関係する。第一に、許容虚偽表示額(監査人が容認できる最大の虚偽表示額)。第二に、期待虚偽表示額(監査人が母集団に存在すると予想する虚偽表示額)。第三に、信頼度(通常、95%から99%の範囲)。この3要素から標本サイズが決まる。
非統計的サンプリングを選択した場合でも、監基報530号第8項は、サンプルサイズを決定するための根拠文書が必要であることを明記している。単に「経験的に30項目」と判断するだけでは足りない。許容虚偽表示額との比較、期待虚偽表示額との関係、母集団の性質などの要素を総合的に記載すること。
実践例:フィッター精密工業株式会社
クライアント: 東京都に本社を置く精密機器製造業、2024年度売上高85億円、IFRS報告。
ステップ1:許容虚偽表示額と期待虚偽表示額の設定
監査人は、財務諸表全体の許容虚偽表示額を8億5,000万円に設定した。フィッター精密の売上高に対する比率は約10%。これは、過去3年間の検出虚偽表示額と、当期における業務処理上の誤りの傾向から判断した。
文書化ノート:「許容虚偽表示額の設定根拠」ワークペーパーに、売上高比率、過去の誤り率、リスク評価との関連性を記載。
期待虚偽表示額は、前年度の未検出虚偽表示額の最大値と、当期における体系的な処理誤りの傾向から8,500万円に設定した。
文書化ノート:「期待虚偽表示額」に、前年度の傾向、母集団の性質、期末処理の複雑さを記載。
ステップ2:サンプルサイズの計算
統計的サンプリング(属性サンプリング)を適用する場合、信頼度95%、期待誤り率2%を用いると、サンプルサイズは約150項目と計算された。しかし、フィッター精密の売上高取引は総計2,100件。母集団の5%を上回るサンプルサイズは、実務的には削減可能。
監査人は、期待虚偽表示額と許容虚偽表示額の比率(8,500万円/8億5,000万円 = 10%)から、サンプルサイズを非統計的判断により120項目に調整した。この調整の根拠は、期待虚偽表示額が許容虚偽表示額の10%に留まるため、統計的計算より若干低めのサンプルサイズでも、母集団についての十分な確信が得られると判断したもの。
文書化ノート:「サンプルサイズ決定根拠」に、統計計算との差分、調整理由、リスク評価とのリンク、監査人の職業的判断の内容を具体的に記載。
ステップ3:サンプルの選択と抽出方法の決定
系統抽出法により、2,100件の売上高取引から120項目を選択した。抽出間隔は2,100÷120 = 17.5、初期サンプルを12として、12、29.5(=29)、46.5(=47)、...という方式で抽出。
文書化ノート:「サンプル抽出方法」に、採用した方法(系統抽出)、抽出間隔、初期サンプルの選択方法を記載。非統計的サンプリングの場合でも、選択ロジックが追跡可能である必要がある。
ステップ4:監査手続の実施と結果の評価
120項目のそれぞれについて、請求書、納品証、売上計上日が売上台帳と一致するか確認した。その結果、2件の虚偽表示を発見:1件は計上時期の誤り(虚偽表示額1,500万円)、1件は重複計上(虚偽表示額2,200万円)。
サンプルにおける虚偽表示額の合計は3,700万円。これを母集団全体に推定する場合、監基報530号第A2項の逆算方式を適用する。推定虚偽表示額は、(虚偽表示額合計÷サンプルサイズ)×母集団サイズ = (3,700万円÷120)×2,100 = 6億4,750万円。
文書化ノート:「サンプリング結果の評価」に、発見された虚偽表示の詳細(いつ、どの取引で、金額)、推定虚偽表示額の計算式、許容虚偽表示額との比較を記載。
ステップ5:許容虚偽表示額との比較と監査結論
推定虚偽表示額(6億4,750万円)は、許容虚偽表示額(8億5,000万円)を下回っている。ただし、非サンプリングリスク(抽出漏れ、手続の実施ミス)を考慮すると、推定虚偽表示額に一定の安全マージンが必要となる。
監査人は、追加的に月次締切処理の4ヶ月について全項目確認を行い、体系的誤りがないことを確認した。この追加手続により、推定虚偽表示額は合理的な水準にあると判断。
文書化ノート:「サンプリング結論」に、推定虚偽表示額と許容虚偽表示額の比較、追加手続の実施内容、最終的な監査意見への影響を記載。母集団全体に対するリスクが低減されたことを明確に述べる。
結論:フィッター精密の売上高については、監査サンプルにより母集団が適正である可能性が高いと判断。調整提案は行わず、被監査会社の計上額を承認。
レビュイアーと実務者が見落とすこと
- 層別サンプリングの未検討: ISA 530.A25は、母集団を層別化して、各層でサンプルサイズを個別に決定する方法を説明している。特に金額の大きい取引と小さい取引が混在する場合、層別しないと小額誤りが過小評価される。多くの調書では、全体サンプルサイズのみを記載し、層別による分析を欠く。
- 期待虚偽表示額の根拠不足: AFMのモニタリングレポートでは、期待虚偽表示額を「過去の経験から」と漠然と記載している調書が指摘されている。ISA 530.6(b)は、期待虚偽表示額の決定に「監査人が識別したリスク」を考慮することを求めている。期末処理の複雑さ、内部統制の有効性、被監査会社の変更事項などを明示すること。
- 推定虚偽表示額と許容虚偽表示額の比較未記載: サンプルから虚偽表示が発見されたとき、その推定額を母集団全体に拡大する計算が記載されていない調書がある。ISA 530.A2は逆算方式を説明しているが、非統計的サンプリング時にどの方式を適用するか、実務では曖昧になりやすい。計算式と根拠を明確にすること。
- サンプル内の異常項目を除外して評価する: ISA 530.11は、サンプル内で発見された虚偽表示を個別に分析し、それが孤立的な事象か体系的な誤りかを判断するよう求めている。異常値として除外するには、その項目が母集団の他の項目とは明確に異なる特性を持つことを示す根拠が必要だ。「金額が大きいから異常値として除外した」という判断では不十分である。
関連用語
- サンプリングリスク: サンプルが母集団を正しく代表していないため、監査結論が誤った場合のリスク。非サンプリングリスクとの区別が重要。
- 許容虚偽表示額: ISA 320と併せて、監査人が容認できる虚偽表示の最大額。サンプルサイズ決定の出発点。
- 期待虚偽表示額: ISA 530で定義される、母集団に存在すると監査人が予想する虚偽表示額。前年度実績と当期リスク評価から推定。
- 層別サンプリング: 母集団を金額や属性によって層に分け、各層で個別にサンプルサイズを決定する方法。ISA 530.A25で説明。
- 統計的手続対非統計的手法: ISA 530は両方を認める。統計的手法は信頼度を数値化できるが、実務コスト増。非統計的手法は職業的判断による。
- 属性サンプリング: 特定の属性(例えば、請求書に承認署名があるか)の有無をテストするサンプリング方法。個別項目の金額ではなく、統制の有効性評価に使う。
関連ツール
監基報530号の層別サンプリング計算を自動化するサンプルサイズ計算機を提供しています。許容虚偽表示額と期待虚偽表示額を入力すると、統計的な標本サイズが即座に計算され、職業的判断による調整の出発点が得られます。