前提条件チェック

財務報告の枠組みが受容可能かの判定

監基報210.6(a)は、適用される財務報告の枠組みが受容可能であることを前提条件とする。中小企業では複数の枠組みが選択可能な場合が多い。

日本基準、IFRS、中小企業の会計に関する指針、米国基準。どれを選ぶかで監査手続も監査報告書の記載も変わる。経営者が「一番簡単な基準で」と言ってきた場合、監査人は何を確認すべきか。

監基報210.A11は受容可能性の判断要素を示している。規制要求、利用者のニーズ、監査人による財務諸表の作成目的の理解。経験上、ここで安易に経営者の希望を通すと、後から監査意見の形成で問題が出る。

株主総会での承認が必要な会社で中小企業指針を適用したい場合を考える。株主が金融機関であり、融資条件でIFRSベースの数値を要求されているとしたら、中小企業指針は利用者ニーズを満たさない可能性がある。

経営者の責任の理解と承諾

監基報210.6(b)は、経営者が監基報210.8で定める責任を理解し承諾することを求めている。

第1は財務諸表の作成と適正表示。第2は内部統制の整備と運用。第3は監査人に必要な情報へのアクセス提供。第4は、経営者確認書の提出である。

実務で問題になるのは情報アクセス。「システムの都合で過去3年分のデータは出せない」「親会社の承認がないと関連当事者の詳細は開示できない」といった制約は監基報210.8(c)の責任と矛盾する。本音を言うと、この段階で制約を放置したまま受嘱すると、繁忙期に入ってから身動きが取れなくなる。

監査契約を締結する前に、これらの制約が監査に与える影響を評価しなければならない。制約が監査意見に影響するレベルなら、制約の解除を条件とするか、受嘱を断る。

監査契約書の必須記載事項

監査人の責任の明確化

監基報210.10(a)は、監査の目的と範囲を契約書に記載するよう求めている。「会社法に基づく監査を実施する」だけでは不十分である。

監査基準に準拠した監査の実施、財務諸表に対する意見表明、重要な虚偽表示の発見に関する合理的保証の提供、監査の固有の限界に関する説明。これらの要素を具体的に記載する。

監基報210.10(b)では監査人の責任を記載する。監査意見の根拠となる十分かつ適切な監査証拠の入手、監査基準の遵守、職業倫理に関する規則の遵守、独立性の維持を含む。

契約書でよく問題になるのは「重要な虚偽表示を発見した場合の対応」だ。経営者に報告するのか。意見形成に影響するのか。審査に上げるのか。追加手続を実施するのか。これらの対応を契約書に明記しなければ、発見時に対応が遅れる。

経営者責任の具体的記載

監基報210.10(c)では経営者の責任を契約書に記載する。前提条件で確認した責任をより具体的に書くことになる。

財務諸表の作成責任では、会計方針の選択と適用、会計上の見積りの実施を含む。

内部統制の責任では、財務報告プロセスの統制、資産保全の統制を範囲に含む。実際の契約書では「内部統制制度の整備および運用の責任は経営者にあり、監査人は内部統制の整備運用について責任を負わない」と記載することが多い。

情報提供責任では、会計記録へのアクセス、関連当事者情報の提供、後発事象の報告、経営者確認書の提出を含む。期限も併記する。「期末後1か月以内に後発事象の有無を書面で報告する」といった具体性がないと、期限を過ぎてから催促する羽目になる。

監査報告書の記載予定事項

監基報210.10(d)は監査報告書の予定される様式と内容を契約書に記載するよう求めている。

標準的な無限定適正意見の場合でも、監査した財務諸表の名称、監査期間、適用した監査基準、意見の根拠となる監査証拠について契約書で合意しておく。

限定意見や意見不表明の可能性についても触れる。「監査の過程で発見される事項によっては、限定意見または意見不表明となる場合がある」旨を記載し、その場合の対応を定めておかないと、意見変更時にクライアントと紛争になりかねない。

実例:田中製作所株式会社の監査契約

想定クライアント: 田中製作所株式会社(資本金9,800万円、売上高42億円、従業員280名、自動車部品製造業、大阪府堺市)

Step 1:前提条件の確認 適用する財務報告の枠組みを確認する。会社法監査のため日本基準を適用。取引先の親会社(上場企業)がサプライヤー財務情報でIFRS準拠を要求しているが、会社法監査には影響しない。

監査調書記載:前提条件チェックリスト完了。財務報告枠組み:日本基準、経営者責任承諾:2024年3月25日取得。

Step 2:経営者責任の確認 CFOとの面談で情報アクセスの制約を確認した。親会社との取引条件は開示可能、海外子会社の詳細財務情報は3営業日で入手可能、システムデータは過去5年分まで出力可能。制約なし。

監査調書記載:経営者面談議事録2024年3月25日。情報アクセス制約なし、関連当事者情報提供可能、システムデータ5年分利用可能と確認。

Step 3:契約条項の具体化 重要性の基準を契約書に記載。税引前利益の5%を目安とし、質的要因による調整を含む。期中に重要性を見直す場合の手続も定めた。

監査調書記載:契約書第7条に重要性算定方法記載完了。見直し時は書面による合意を条件とする旨追記。

監基報210の要件を満たす契約書が締結され、監査実施の前提条件が整備された。期中の変更要求にも契約条件で対応できる状態となっている。

実践チェックリスト

1. 監基報210.8の前提条件(財務報告枠組みの受容可能性、経営者責任の理解、経営者責任の承諾、経営者確認書の提出)を受嘱前に確認する 2. 監査の目的・範囲、監査人責任、経営者責任、監査報告書様式を監基報210.10に従い具体的に記載する 3. 重要性の算定方法、見直し手続、変更時の合意方法を契約書に明記する 4. システムデータ、関連当事者情報、後発事象報告の具体的な提供方法と期限を契約で定める 5. 監基報210.20の要件に基づき、毎年度継続可否を判断し、変更があれば契約条項を更新する(SALYで前年契約書をそのまま使い回すのは危険である)

よくある契約上の問題

• 監基報210.A7が指摘するとおり、「監査を実施する」という抽象的な表現では監査基準への準拠義務が不明確になる。契約書の文言は具体的な基準名を含むべきだ。

• 重要性の算定基準を契約書に書かない事務所は多い。経験上、ここが曖昧だと期中の変更要求で経営者と対立が生じやすい。

• 前年度契約書をそのまま更新し、監基報210.20の継続受嘱判断を省略するケースが散見される。クライアントの事業環境や経営者の誠実性に変化がないか、毎年度確認しなければならない。

関連情報

• 監査契約書テンプレート - 監基報210準拠の契約書ひな形と記載例

重要性計算ツール - 監査契約で定める重要性算定の実務的計算

• 前任監査人からの引継ぎガイド - 監基報210.A26の情報収集手続

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