2つの基準の主な違い
| 評価の側面 | 現行ISA 570 | ISA 570(改訂2024) |
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| 事象の洗い出し | 疑義を生じさせる事象を経営者の対応策と合わせて検討 | 全ての疑義を生じさせる事象をグロスベースで識別。対応策の評価は後 |
| 対応策の評価 | 事象の識別と同時に評価 | 事象の識別後、個別に評価。対応策の実現可能性と効果性を分離 |
| 監査証拠の要件 | ISA 570.16に基づき、経営者の意図と能力を検証 | ISA 570(改訂)17項に基づき、対応策の実現可能性を細分化評価 |
| 結論の形式 | 疑義あり/なしの二値判定 | 段階的評価(実現可能性が高い/条件付き/低い)を経て判定 |
何がこの違いを重要にするか
現行基準では、多くの監査法人がリスク評価の段階で「経営者は資金繰りが厳しいが、銀行との協調融資枠があるので対応可能」と判断している。ISA 570.16を形式的に参照して終わっている。改訂版ISA 570.17では、銀行との協調融資が「確実に実現するか」を個別に検証することが求められた。銀行との取極めがいつまで有効か、与信額の確認、返済スケジュールとの適合性。評価の粒度が変わる。
ISA 570(改訂).A2~A5では、複数のシナリオに基づく評価を明示的に求めた。売上が予想通りに回復しない場合、固定費をどこまで削減できるのか。その削減が本当に実行可能なのか。経営者の確認だけではなく、監査証拠で裏付ける必要が出てくる。現行基準の調書では、「経営者は対応可能と述べている」で済ませている案件が多い。改訂版では、その述べていることが成り立つかを監査人が検証する仕事が増える。
実務例:改訂版の評価プロセス
事例:田中インダストリアル株式会社(日本、製造業、売上8億円、IFRS報告者)
現行基準での評価:営業利益率が低下(前年2.1%→当年0.8%)。銀行との協調融資枠1億5000万円を確認。経営者は来年度の事業計画で改善見込みと述べている。調書記載事項:「継続企業に関する疑義あり。経営者の対応策を確認した。実行可能と判断」
改訂版ISA 570での評価:
ステップ1:疑義を生じさせる事象をグロスベースで洗い出す。調書記載事項:営業利益率0.8%は業界水準1.5%を下回る。固定費率が63%で業界水準58%を超える。借入金返済スケジュールが24ヶ月。現預金残高8000万円。
ステップ2:各事象について対応策を識別する。調書記載事項:経営者の対応策は(1)営業費用の15%削減、(2)協調融資枠の延長、(3)価格改定
ステップ3:各対応策の実現可能性を個別に検証する。(1)営業費用削減について、過去3年の実績で最大何%の削減を達成したか。今年15%削減の前例があるのか。ないなら、その削減が現実的なのか、経営者の意図だけか。調書記載事項:過去3年最大削減は8%。15%は前例なし。経営者に聞き取った結果、新規顧客からの受注増を前提。その受注が確実なのか、営業部門への問い合わせ。
(2)協調融資枠の延長について、現在の銀行との覚書がいつまで有効か。延長の合意が書面化されているか。調書記載事項:銀行覚書は2025年6月まで。2026年1月までの延長を銀行に口頭確認。書面での延長合意なし。金利条件は現行と同じか確認書のない状態。この段階で「実現可能性が高い」と言えるか。「条件付き」の評価。
(3)価格改定について、市場競争力との関係を検証。競合他社の価格体系。顧客からの値上げ受け入れの可能性。調書記載事項:競合他社との価格比較で5%の値上げ余地あり。ただし顧客10社の売上構成で7社がコスト削減を要求中。値上げ受け入れの可能性は限定的。
最終判定:3つの対応策すべてが「確実性が高い」ではなく、複数が「条件付き」である。シナリオ分析を拡張。売上が予想の80%だった場合、固定費をさらに削減する余地があるか。調書記載事項:固定費の追加削減可能額5000万円(全体の8%に相当)。売上が80%に落ち込んでも、先延ばしされた融資返済の対応が課題。この条件下で継続企業の前提は成立するか。成立しない可能性を認識。
結論:現行基準なら「経営者は対応可能」で判定終了。改訂版では、複数のシナリオ下での成立性を段階的に評価。すべてのシナリオで継続企業の前提が成立しない場合は、開示不十分として意見に反映させる可能性が出てくる。
監査法人が間違えるポイント
第1段階(事象の識別)での誤り: ISA 570(改訂).12では「疑義を生じさせるに足る事象または状況」をグロスベースで識別することが求められた。しかし現行基準での調書から移行する場合、経営者の対応策の強さで事象の「疑義度」をフィルタリングしてしまうチームが多い。「経営者は資金繰り計画があるから、この事象は疑義に該当しない」という判断。改訂版では、対応策の有無は関係なく、財務指標が基準を下回っていたら事象として識別する。対応策は後で評価する。この入口での分離ができていないと、後続の評価ステップが崩れる。
第2段階(対応策の評価)での誤り: ISA 570(改訂).17では対応策の実現可能性を「高い」「条件付き」「低い」に分類することが期待されている。ただし多くの調書では「経営者は実行可能と述べている」で「高い」と判定している。改訂版の要求は、監査人が独立した判断をすることだ。経営者の述べていることが現実的か、監査証拠で裏付けるのか。その作業なしに「実現可能性が高い」と言える状況は極めて限定的である。
シナリオ分析の不足: ISA 570(改訂).A2~A5でシナリオベースの評価を明示した。改訂版の施行以前に執行された監査の調書を見ると、シナリオ分析を実施していない案件が大多数である。「計画通りに進めば継続企業の前提は成立する」という評価。改訂版では、計画通りではない場合(売上予想の90%、80%、70%)を明示的に検討することが当たり前になる。
改訂版への移行準備
2026年12月施行まで:
現在の調書ファイルを改訂版の構造に対応させる過程で、3つの準備が必要だ。第1に、事象と対応策を物理的に分離した調書を設計する。現行の「事象と対応策」欄を、「事象(グロスベース)」「対応策」「実現可能性評価」「シナリオ分析」の4欄に分ける。第2に、対応策の実現可能性を検証するための監査手続を定義する。経営者への質問では足りない。銀行覚書の書面確認、売上予測の根拠となる受注表の検証、固定費削減計画の実行可能性の詳細検討。これまでよりも「深い」手続が必要になる。第3に、複数シナリオに基づく評価を組織的に実施する体制を整える。スプレッドシート分析では不十分。キャッシュフロー予測ツールを導入して、「売上が80%だった場合」という条件入力で即座に継続企業の成立性を判定できる環境を作ることで、チームの効率性が上がる。
改訂版ISA 570は2024年10月に公表され、2026年12月15日から適用される。それまでの間、現行基準で監査を継続する。2026年度上期の暫定期間は、2つの基準が混在する可能性がある。早期導入する法人と、施行日まで現行基準を使う法人が共存する状況で、監査品質の比較が可視化される。競争力の観点からも、改訂版への対応準備を早期に進める法人と、そうでない法人の間で差がつく期間になるだろう。