Definition

2024年度の繁忙期、あるクライアントが「GRI対応は終わっているから、ESRSもそのまま出せるはず」と言ってきた。調書を開いてみると、影響的重要性の評価がゼロ。財務的重要性しか見ていない。GRI対応済みの企業ほど、この落とし穴にはまる。

仕組み

ESRS基準の構造は、IFRSと同様に業種横断的基準と業種別基準に分かれている。業種横断的基準は全企業が対応すべき基準群で、ESG情報の報告にあたって実施すべき評価プロセスを定めたものだ。

ダブルマテリアリティの評価がESRSの中心的な要件である。ESRS 1.IRO2では、企業が以下の2つの観点から重要性を判定するよう定めている。

財務的重要性(Impacts on business)は、サステナビリティ課題が企業の財務状況、業績、成長機会やリスクにどう影響するかを問う。

影響的重要性(Impact materiality)は、企業の事業活動が環境・社会にどのような悪影響を及ぼすかを問う。被害者となるステークホルダー(労働者、地域社会など)の観点から影響の度合いを判定する。

2つの観点から重要と判定されたテーマだけがESRSの報告対象となる。どちらか一方では不十分だ。一度設定した重要性の判定は、報告年度ごとに再評価する必要がある。環境規制の変更、サプライチェーンの変動、利害関係者の期待の変化があれば、重要性も動く。

ESRS基準群には、気候変動(E1)、汚染(E2)、水資源(E3)、生物多様性(E4)、労働力(S1)、顧客・消費者(S2)、コミュニティ(S3)、ビジネス行為(G1)の8つの分野別基準がある。各分野について、報告すべきデータの粒度と様式が細かく規定されている。

ただし、他の報告体系(GRI、SASB、TCFD)とESRSが完全に一致するわけではない。複数の報告体系に同時に対応している企業の場合、ESRSの定義する「重要性」が他の体系の重要性と一致しないケースが頻出している。

実践例:ベルント・インダストリアルズ(ドイツ製造企業)

ベルント・インダストリアルズは本社をベルリンに置く化学品製造企業。売上は1,250万ユーロ、従業員480名。EU圏内に3つの生産拠点を持つ。2024年度が初めてのCSRD報告対象年度で、ESRS対応が喫緊の課題となっている。

ステップ1:ステークホルダー・マッピング 経営層とともに、事業に関わる全ステークホルダーを特定する。従業員、下請業者、地域社会、規制機関、顧客、投資家、NGOの7グループ。

文書化ノート:ESRSプロセス記録シートに、各ステークホルダーグループとその懸念事項を記録。

ステップ2:財務的重要性の評価 気候変動規制の強化によって、カーボン税が2025年度から段階的に導入される予定。粗利に対する影響を定量化する。現在の排出量で推移した場合、年間250万ユーロのコスト増加を見込む。売上1,250万ユーロに対して20%のインパクト。財務的に重要であることは明白だ。

文書化ノート:シナリオ分析ファイルに、カーボン税推計額、対売上利益率、経営層への報告資料を記録。

ステップ3:影響的重要性の評価 生産拠点の1つが水資源の乏しい地域に立地していることが判明した。現地の水使用量制限規制の強化傾向から、将来的に操業ライセンスが取り消されるリスクが存在する。地域社会の水へのアクセスに直接的な悪影響を及ぼす可能性があり、影響的重要性ありと判定。

文書化ノート:地域環境影響評価、NGOヒアリング記録、地元自治体への問い合わせ結果。

ステップ4:マテリアリティマトリクスの作成 縦軸に影響的重要性、横軸に財務的重要性をプロットする。気候変動とエネルギー効率は両軸で高い。水資源は影響的重要性が高く、今後財務的重要性も高まる見込み。労働力の多様性は現在、両軸で低いが、新規採用計画により重要性が上昇する予定。

文書化ノート:マテリアリティマトリクス図表、プロット根拠の説明、経営層の承認。

ステップ5:対応すべきESRS基準の決定 マテリアリティマトリクスの結果に基づき、対応すべき基準を決定。気候変動(E1)と水資源(E3)は報告対象。ガバナンス基準(G1)は常に適用。その他は「報告不要」として正当化できるか確認する。

文書化ノート:ESRS報告スコープマトリクス、除外基準の説明。

ベルント・インダストリアルズの場合、初回報告では気候変動、エネルギー、水資源、ガバナンスの4分野に集中する形になる。他の分野は「現在のビジネスモデルではリスク・機会ともに限定的」と説明できるだろう。監査人がこの判断を支持するには、マテリアリティ評価プロセスの完全性と、ステークホルダー・エンゲージメントの記録を確認しなければならない。

監査人が見落としやすい点

第1段階:規制当局の指摘事例

オランダの金融市場庁(AFM)が2024年の予備的モニタリングレポートで最も多く指摘したのは、ESRS報告における「ダブルマテリアリティ評価の不十分さ」である。企業が財務的重要性だけで対応してしまい、影響的重要性(ステークホルダーへの悪影響)の評価を軽視するケースが多い。ESRS 1は両方の評価が必須と明確に定めているにもかかわらず、だ。

日本のCPAAOB(公認会計士・監査審査会)はESRS監査を直接監督する立場にないが、品管レビューでサステナビリティ保証業務の品質管理体制について確認が入り始めている。

第2段階:基準参照と実装のズレ

ESRS E1.1は気候変動シナリオに基づくリスク分析を定めている。多くの企業はTCFDの枠組みを流用し、1.5℃シナリオと4℃シナリオの影響を評価したと主張する。しかしESRS E1.6は、報告企業のバリューチェーン全体(スコープ1、2、3)における排出量の定量報告を定めており、シナリオ分析だけでは足りない。排出量が定量化されていなければ、スコープ3をカバーできていないと見なされる。

正直、スコープ3の定量化は経験上、クライアントの協力が得られないと調書が埋まらない。ここが一番時間を食うところだと思う。

第3段階:実務レベルの対応状況

多くの監査法人がESRS監査を「サステナビリティレポートの監査」と同じ工程で扱っている。しかしESRSはISA 570やISA 240と同じ論理で「虚偽表示」を定義する。単に「開示が不十分」というだけでなく、「評価プロセスに欠陥がある」こと自体が虚偽となる。ダブルマテリアリティ評価の不完全性は、ESRSの文脈では「虚偽」と判定される可能性が高い。従来のサステナビリティ監査とは性質が異なる。

他の基準や概念との違い

ESRS vs GRI基準

GRI(グローバル・レポーティング・イニシアティブ)は、個別の課題ごとに重要性を判定し、より柔軟な報告体系である。一方、ESRSはダブルマテリアリティを厳密に区分し、報告対象外の課題についても「報告不要の根拠」を明示するよう定めている。

GRI対応を終えた企業が、そのままESRS対応できると考えるのは危険だ。ESRS特有の「影響的重要性」評価では、人権侵害リスクやサプライチェーンの労働搾取といった、GRIでは周辺的だった課題が中心に浮上する可能性がある。

ESRS vs SASB基準

SASB(持続可能性会計基準審議会)は財務的重要性に焦点を当て、業種別に報告対象課題を限定している。ESRSはSASBより広範で、影響的重要性を評価対象に加え、すべての環境・社会課題をスコープに含めようとする設計だ。

SASBでは「気候変動は金融サービス業以外では財務的に重要ではない」という結論も可能である。しかしESRSでは、製造業であっても、その製造活動が地域環境に与える悪影響が「影響的に重要」と判定されれば、報告が必須となる。

ESRS vs TCFD枠組み

TCFD(気候関連財務情報開示タスクフォース)のシナリオ分析は、気候変動が企業財務に及ぼす物理的・移行的リスクを評価する手法である。ESRS E1はTCFDの枠組みを大幅に拡張し、シナリオ分析に加えて、企業が排出するGHGの絶対削減目標の設定と進捗報告を義務付けている。

TCFDはリスク識別と情報開示が主眼だが、ESRSは企業が実際に削減行動を取ったかどうかの結果報告まで範囲を広げている。

関連する用語

- ダブルマテリアリティ: 財務的重要性と影響的重要性の両観点から判定される重要性。ESRSの基本概念。 - CSRD(欧州企業サステナビリティ報告指令): ESRSを義務付ける欧州連合指令。2024年から段階的に適用開始。 - ISA 570(継続企業): 企業の継続企業の前提を評価する監査基準。ESRSの気候変動課題とも関連する。 - ISA 240(不正): 経営層による虚偽表示リスクを評価する基準。ESRS評価プロセスの完全性評価に準用される。 - 限定保証: ESRS報告に対する第三者保証の形式。合理的保証より証拠集約度が低い。 - インパクト評価: ステークホルダーおよび環境への負の影響を定量・定性的に評価するプロセス。

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